牛岐城

別名 浮亀城
     富岡城 
付近住所 徳島県阿南市富岡町トノ町 現在-
2009/3/28 碑・案内板アリ 日本城郭大系


新開氏

賀島氏
 富岡城ともいう。牛岐城の創建された時期は明らかでないが、戦国時代には阿波守護細川氏の家臣新開氏の居城であった。後に阿波の実権は細川氏から家臣の三好氏に移ったが牛岐城主は変らなかった。
 天正3年(1575)、土佐の長宗我部元親が阿波を侵攻し、周辺の諸城はすべて落城したが、牛岐城の新開遠江守道善だけは最後まで抗戦した。しかし天正8年(1580)に多勢に無勢でついに土佐軍の軍門に降った。阿波全土を平定した天正10年(1582)に長宗我部元親は道善を徳島の丈六寺まで呼びだして謀殺した後、弟の長宗我部親康を牛岐城に配置し阿波南方の守備をさせていた。
 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国攻略により長宗我部軍は全面的に敗退し土佐に撤退した。四国を掌中にした秀吉は蜂須賀家政を阿波国の大名に任命した。家政は家臣の姉の子である細山政慶(後に賀島に改姓)を牛岐城の城代に任じて三百で守らせた。牛岐城は阿波九城の一つであり、阿波南方最大の軍事拠点であった。
 賀島政慶は入城後、間もなく牛岐の地名を縁起のよい富岡に改めたので城も富岡城と呼ばれるようになった。賀島氏は徳島藩の家老に任じられ明治維新まで藩の次席家老としての重職を務めた。
 幕府の一国一城令により、寛永15年(1638)に富岡城は取り壊され、城の石垣は桑野川の灌漑施設である一ノ堰の建設に利用された。城下町として成立した富岡町は城の廃止により商業地である郷町として徳島城下に次ぐ繁栄を遂げることとなった。
 富岡城の城山はもともと南北に細長い瓢箪状の地形であったが、大正2年(1913)に町道の開鑿により城山は南北に分断された。
 平成11年、城山南側の本丸跡に産業展示館を建設し、阿波の産業を紹介するとともに発掘された牛岐城の石垣を建物内に取り入れ保存することになった。